【反戦】映画で学ぶ 核兵器の歴史

映画で学ぶ核兵器の歴史

目次

2025年は、広島と長崎に原爆が投下されてから80年の節目である。戦後の日本は日本国憲法第9条の下、平和国家としての歩みを続けてきた。

近年では、2022年に始まったロシアのウクライナ侵攻や、中東で続くパレスチナ・イスラエル間の紛争など、国際情勢の不安定さが一層際立っている。こうした情勢は、戦後80年間積み上げてきた平和の努力が、依然として危機にさらされていることを痛感させる。

当然ながら核兵器に限らず、他人の命をその人の意志に反して奪う行為は許されるべきではない。では、一体なぜ核兵器にフォーカスするのか。それは、地球規模の争いに発展し得る兵器が生まれた理由、そして人類が80年間その力を使わないよう、如何なる努力してきたのかを確かめることで、未来の平和について考えていきたい。

核兵器関連年表

1945年8月6日。広島に原子爆弾が投下され、後遺症も含めて約14万人が亡くなった。その翌日、トルーマン大統領による原爆投下の声明がラジオで放送され、ニューヨーク・タイムズが原爆投下の記事を発表、世界中が日本への原爆投下を知ることになった。遅れること約2時間、日本政府が広島への”新型爆弾”投下を発表。しかし、詳細は調査中とされた。

映画評論家の瓜生忠夫は、この報せを聞き、日本映画社のカメラマンを広島に派遣し、その様子を記録させた。しかし、このフィルムは日本映画社を管轄していた参謀本部から陸軍省に渡って以降、行方不明となり幻の作品となってしまった。その後、日本映画社は広島、長崎に出向き、原爆被害の様子を収めたが、GHQによる撮影禁止通告を受けることになる。これらのフィルムは『広島・長崎における原子爆弾の影響』(原題:EFFCTS OF THE ATOMIC BOMB ON HIROSHIMA AND NAGASAKI)として長編化されるが、アメリカ本国に送られることとなった。1952年、密かに複写していたプリントを基に、朝日ニュースで『原爆特集』として公開され、原爆の被害が人々に知られることになった。

1967年にアメリカ政府により『広島・長崎における原子爆弾の影響』のフィルムが返還され、文部省による検閲を経て、広島編と長崎編で計2時間31分の放送が行われた。この作品は原爆投下直後の広島、長崎の街を克明に記録しており、80年経った今の広島や長崎からは想像が出来ないほどの焼け野原が映し出される。フィルムの撮影から公開までに18年の時を要したのは、アメリカ政府による情報統制が直接の原因と考えられる。おそらく、他国の原子爆弾開発を遅らせる狙いがあったと考えられるが、1949年にはソ連が、1952年にはイギリスが原子爆弾の開発に成功しており、この検閲がどれほどの意味があったのかは疑問である。もし、この作品が原子爆弾投下直後に世界中に公開され、アメリカが核拡散防止に動いていれば、今とは違う世界があったかもしれない。

前章の通り、1945年8月の原爆投下以降、日本は占領下に置かれ、原爆被害に関する言論や報道、映像表現はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導のもと、厳しく統制された。被爆の惨状や市民の証言は、写真・映画・出版物において検閲の対象となり、自由な記録や言及は長らく封じられていた。

この“沈黙”の時代が終わりを告げるのが、占領の終了と日本の主権回復によって言論統制が解除された1952年前後である。ちょうどこの時期に、被爆体験を題材とした映画作品が次々と制作されはじめる。戦争の加害・被害の問題をめぐる沈黙を経て、ようやく“被爆国”日本が「原爆について語りはじめた」時代、すなわち“証言の時代”が訪れたのである。

1950年代に制作された原爆映画は、その多くがこの言論統制の解除を受け、体験者の声や市民の記憶を映像として可視化しようとしたものである。これらの作品は、国家が口をつぐむ中、市民の側から記憶のアーカイブを担い、戦争の記録と教訓を未来へとつなげようとする試みであった。

新藤兼人による『原爆の子』(1952年)は、長田新が編纂した文集「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」を原案とし、原爆によって家族を失った子どもたちの日常を描いた作品である。原爆が直接の死因となった人々の描写もあるが、本作では原爆症に苦しむ生存者たちに焦点を当てている。中でも、原爆によって視力を奪われ、乞食として生きることを余儀なくされた岩吉の物語は絶望的なものだ。彼と同じように、生きていることが地獄の様に感じてしまう人々が、戦後も多く残っていたことは心に留めておくべきだ。このように、被爆者の視点を通じて語られる“体験の連鎖”を映画として定着させた点で、本作は証言の時代の嚆矢となる。

『原爆の子』の翌年に公開された関川秀雄監督の『ひろしま』(1953年)は、当時の広島市民や被爆者約9万人がエキストラとして参加し、被爆直後の焦土と化していく街の描写を通して、原爆がいかにして人間性を破壊したかを克明に再現した。やけどだらけの肌で奇声を上げて走り回る子ども、ふと気が付くと隣に居た人間が亡くなっている非現実的な状況、それらすべてが1945年の現実だったことを私たちは映画から学び取っていかなければならない。

映画『ひろしま』は井上・月丘映画財団のページで無料視聴することができます。
https://inoue-tsukioka.com/inoue-tsukioka-movie/hiroshima

1955年に公開された黒澤明の『生きものの記録』は、三船敏郎演じる喜一が、米ソ冷戦下での核戦争を恐れるあまり、家族の反対を押し切ってブラジルへの移住を計画する。しかし、喜一の家族は、彼を狂信的な恐怖に囚われた心神衰弱者として、訴えを起こす。一方、喜一の裁判を担当する調停員の原田は、息子に『原爆だとか水爆、どう思う?怖いかい?』と問う。息子は『そりゃ、誰だって怖いに決まってますよ。だからってどうしようもないじゃないですか』と答える。この息子の答えは、戦後80年が経過して薄らいでいるが、私たちの心中にたしかに存在する核兵器への漠然とした恐怖を代弁している。

もう一つ、心に残るセリフは、人間はいつか死ぬと説得する家族に対し、喜一が放った『死ぬのはやむをえん。だが殺されるのは嫌だ』という心の叫びだ。この主張を聞き、その場の全員が黙り込んでしまう。実際、この主張は長い人類の歴史の中で、一方的に殺される立場にある誰しもが思ったことなのではないだろうか。

この作品には直接的な核兵器の描写は登場しない。しかし、”核兵器が存在する世界”に潜む、漠然とした恐怖が家族の物語を通して、強烈に描かれている。

第8回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞した今井正の『純愛物語』(1957年)。本作では、戦災孤児の少年少女の恋愛物語が作品中盤まで描かれる。同じ境遇を持つ貫太郎とミツ子の恋愛模様は溌剌としていて美しい。しかし、ミツ子が仮病を使っている疑いが持たれ、徐々に異変が現れる。散歩中に突然倒れたミツ子の腕には紫斑が浮き出る。ここから2人を待っているのはタイトルの通りの”純愛物語”である。

本作には『生きものの記録』同様、直接的な原爆描写はない。しかし、スリを止めて、更生して新しい人生を歩もうとする若い男女2人を襲う避けようのない理不尽な暴力として、原爆病が描かれている。戦後復興期が終わり、高度経済成長期に入る1950年代中盤においてもなお、終わらない戦争があることを恋愛映画の中で描き出したこと、そして原爆病を理由とした差別に言及した点で、本作の存在は特筆すべきだ。

1950年代の原爆映画は、1952年のGHQ廃止に伴い、被爆者の実体験が反映される「証言の時代」に入った。ここで紹介した監督たちは1912年以前の生まれで、戦時中は自由な映画制作は当然できず、多くの映画人がそうであったように、国威発揚のための映画を作らざるを得なかった。そんな彼らが、揃って原爆を扱った作品を作ったのは、軍国主義の終わりと平和主義国家への歩みを始めた新たな日本を象徴する出来事といえるだろう。

1945年のトルーマンによる原爆投下の声明は日本を除き、世界に広がった。それから4年後にはソ連が核兵器の開発に成功し、”核戦争”というこれまで経験しなかった規模の争いが起きうる世界が到来した。ソ連に続き、イギリス、フランスも核兵器を開発し、1962年には核戦争に最も近づいた歴史的な出来事である”キューバ危機”が起きた。その後も核保有国は増え続け、現在では約1万発の現役核弾頭が存在する。核兵器の広がりとともに、核戦争の恐怖は世界中に広がった。

世界の現役核弾頭数

核保有国名現役核弾頭数2018年からの増減
ロシア4,3100.8%減
アメリカ3,7002.6%減
中国600150%増
フランス290増減なし
イギリス2255%増
インド18044%増
パキスタン17021%増
イスラエル9013%増
北朝鮮50233%増
合計9,615

出典:長崎大学核兵器廃絶研究センター

『ゴジラ』(1954/日本/96分) 監督:本多猪四郎

“証言の時代”において、新たな語り口で原爆を描いた作品が『ゴジラ』だ。今や、世界中にファンが居るIPとなっているが、第1作となる本作は明確に核の脅威を描いた反戦映画だといえる。本作の日本公開の前年、1953年にはレイ・ブラッドベリの『霧笛』を原作とする『原子怪獣現る』が北米で公開された。『ゴジラ』にも影響を与えたこの作品は日本においても『ゴジラ』から遅れること一か月に公開されている。

前章で述べた作品群は残念ながら時が経ち、認知度は減っていると言わざるを得ない。しかし、”特撮”、”怪獣”のエンタメ要素を含んだゴジラは反核や、反環境破壊、科学の暴走など、様々なテーマを孕みながらシリーズを重ね、現代にも残るアイコンとなっている。ハリウッド版の『ゴジラ』シリーズや『シン・ゴジラ』(2016)、『ゴジラ-1.0』(2023)など、歴史を塗り替える興行的なヒットと映画的評価を獲得する新作が次々に出てくるのは喜ばしい一方、核兵器への警鐘の役割は徐々に薄れているように感じる。

『ゴジラ』(1954)では、水爆実験がゴジラが生まれた原因とされ、放射能による被曝も描かれている。核兵器を通して、”科学の暴走”とその延長にある”成すすべのない恐怖”を描いた初代ゴジラこそ、シリーズの原点である。この精神が国境と時代を越えて広がっていくことが何よりも重要であることを再確認しておきたい。

1957年に出版された同名小説を映画化した本作は、第三次世界大戦後の世界に残った僅かな希望を切り取って描いている。放射能が世界中に広がり、住む場所を失っていく人類。束の間の希望のあとには、成すすべのなくなった人間が辿り着く静かな世界が待っている。

本作の特筆すべき点は、1949年にソ連が核兵器を開発したことで生まれた第三次世界大戦という概念を映像化したことにある。第二次世界大戦後、アインシュタインがトルーマンに送った手紙に記された「第三次世界大戦でどのような兵器が使われるのか私は知りません。ただ、第四次世界大戦は石と棍棒によって戦われるでしょう。」という文章は、第三次世界大戦で世界が終わることを端的に表現している。

人工衛星にしろ、AIにしろ、強力なテクノロジーを独占できるのは僅かな期間であり、他国が同じテクノロジーを模倣し、終わりのない競争が始まることは歴史が証明している。本作はSFというジャンルを通して、際限のない核と科学の競争に警鐘を鳴らすことで、反核兵器を訴えた作品の一つだといえる。

レイモンド・ブリッグズの同名漫画を原作としたアニメ映画。イギリスの片田舎に住む初老の夫婦が核戦争後の世界で生きる様子を、ジオラマとアニメ、記録映像を組み合わせた独自のアニメーションで描かく。この作品には、第二次世界大戦を生き延びた夫婦2人だけが登場する。戦争を生き延びたことは彼らの誇りになる一方、それが慢心にも繋がっていることに目を向ける必要がある。

戦争経験者ゆえ、政府が発行するシェルターの作り方や非常品の備えなどを参考に、当然のように核戦争に備える夫婦が描かれる。そのやりとりはどこか現実味がなく、滑稽にも映る。そんなやりとりは核爆弾が投下されてからも変わらず続く。夫婦は放射能や核兵器の存在は知っていても、それによって実際に何が起こるかを知らない。知識と現実が乖離しており、彼らが「何かがおかしい」と気づいた時には手遅れになってしまう。

これは情報社会化した現代を生きる私達への教訓に満ちている。夫婦が頼りにしていた政府の防災マニュアルは、核戦争後の世界では役不足であった。また、現代医療によって放射能を克服できる、世界機構により、戦争は早期終結するなどの夫婦の考えは願望でしかなかった。私たちの知識や常識がただの願望や机上の空論に過ぎない可能性は大いにある。いざ戦争が現実になった時に、そのことに気づいても遅い。だからこそ、私たちは争いを起こさないために何が出来るかを考え続けていかなければならない。

近年最も話題となった核兵器を扱った映画の代表作。現在、最も新作が待たれる監督の1人、クリストファー・ノーランによる作品でありながら日本での公開はアメリカ公開から半年ほど遅れた。『インソムニア』(2002)以降、ノーラン作品の配給を行ってきたワーナー・ブラザーズと配信についての方向性で確執があり、『オッペンハイマー』の世界配給はユニバーサル・ピクチャーズが行うこととなった。ユニバーサル作品の日本配給は主にパルコや東宝東和が担当してきたが、配給が決まらず、最終的にビターズ・エンド配給で日本公開される運びとなった。

本作は、J・ロバート・オッペンハイマーによる原爆開発と彼のその後の生涯を描いた伝記映画だ。オッペンハイマーを軸に、彼の内面描写を重視した本作はあくまで彼の伝記映画であり、核の悲惨さや平和への願いを訴えた内容とは捉えがたい。むしろ、世界が注目する監督が原爆を題材にした作品を撮ったことで、核兵器の是非を問う機会が生まれたこと方が意義深いと私は考えている。

『アインシュタインと原爆』(2024/イギリス/76分)監督:アンソニー・フィリップソン

『オッペンハイマー』にも登場した科学者アルベルト・アインシュタインを描いた作品。ナチス政権下のドイツからアメリカに逃れたアインシュタインは、ドイツが核分裂反応を発見したことを知る。そして、彼はドイツの核兵器開発を危惧したアメリカの科学者レオ・シラードの依頼で、当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛てにウラン研究の重要性を訴える手紙を送った。

アメリカの原爆開発のきっかけのひとつとなった出来事を描いた本作からわかるのは”競争の果てに核兵器が生まれた”ということだ。劇中でも述べられるように、アインシュタインは自らの人生で犯した大きな過ちは、ドイツの核兵器開発の可能性を恐れ、この手紙に署名したことだと語っている。第一次世界大戦の流れを受けた世界の覇権を賭けた争いが生んだ恐怖が、核兵器開発に繋がった。原爆開発の根底には人間の恐怖心がある。私たちが争いを止めるためにはこの恐怖心と戦う勇気を持つ必要があるといえるだろう。

総括

『ゴジラ』(1954)以降、日本以外の国々でも核兵器の脅威を描いた作品が登場した。SFやアニメ、ハリウッド大作などジャンルを問わず増える作品群は時代と場所を越えて核戦争の恐怖を共有している。2025年、ウクライナやイスラエルの戦争による世界情勢の悪化と呼応するように、世界の核弾頭数は2013年以来初めて増加に転じたと報道された。私たちの生きる世界は現在進行形で核戦争の可能性を孕んでおり、戦後80年の時を経てその可能性が高まり始めている。

被爆経験者の減少とともに、戦争や原爆の記憶が風化していくなか、私達はどのように広島と長崎の悲劇を継承していけばよいのだろうか。映画はその一助になる。映画に残された被爆者たちの証言を継承し、核なき世界のために出来ることを想像し、実践していく時代を作ることが出来るのは現在を生きている人々だけだ。

原爆投下60周年にあわせて制作されたドキュメンタリー映画。広島と長崎の被爆者、原爆投下に関与した米国側の関係者の証言を基に、原爆投下の実像を浮かび上がらせる。

本作では被爆国・日本と原爆を投下した国・アメリカの両国の視点から原爆が語られる。被爆者14名の証言はどれも生々しく、「恐怖と逃げ回っていた記憶しかない」「B29が飛んでいるのが日常で、あまり怖くなかった」「物がなく、靴もないのに戦争に勝つわけがなかった」など被爆者一人一人の言葉で当時の日本を想像させる。

劇中で使用される血まみれで倒れる人々の絵、炭化して真っ黒になった遺体や、生き残っても激しい火傷や肉体が欠損した被爆者の写真は直視するのが憚られるほど残酷な記録だ。中でも印象に残るのは「生き残った方が苦しかったと思う。生きてきた60年は苦しいものだった。」と語る被爆者の声だ。火傷の治療は失神するほどの激痛で、夜になるとウジが湧いて一日中痛みに耐えねばならず、殺してくれと嘆願するものも少なくなかった。肉体的な傷は癒えても、被爆者に対する差別により就職も結婚も出来ず、死にたいのに生きている状態だったという。自殺者も多く出て、被爆者は「生きる勇気と死ぬ勇気」の選択を迫られた。それでも本作で自身の体験を語ってくれた被爆者たちには、「二度と原爆を使わせないという」共通の思いを抱いているように感じ取れる。

また本作の特筆すべき点は、広島に原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイの搭乗員や、長崎に投下された原子爆弾ファット・マンの起爆装置開発者など、米国側で直接原爆に関与した人々の声を記録したことにある。中でも「戦争の早期終結のため、目の前の仕事をやるだけで将来を見通す見識はなかった。」という言葉はとても印象深い。また、戦後60年経った時点での彼らの原爆評価は様々だ。「戦争を早く終わらせるための原爆。そこに同情も後悔もない」と原爆を肯定する者や「なんてことをしたんだ」と後悔の念を抱き、寄付をする者もいた。そして、関係者が語る「核兵器がなんだかわかっていれば、簡単に原爆を落とせばいいとは言えない」という言葉。この言葉が、核保有を訴える人々に届くことを祈る。

原爆から奇跡的に助かった主人公ゲンが、原爆投下後の広島を力強く生きる姿を描いた漫画『はだしのゲン』。アニメ映画化もされた本作の作者、中沢啓治氏へのインタビューを通して、当時の広島で起きた悲劇を見つめるドキュメンタリー。

被爆者の実体験を反映させた作品の中でも知名度の高い『はだしのゲン』。「麦のような逞しい人間になれ」という父の教えを胸に、混乱する戦後の広島を生きるゲンの姿が眩しい。

太平洋戦争下の広島で生きる主人公・すずの暮らしを描いたアニメ映画。ミニシアターから公開した本作は、興行収入27億円を超える特大ヒットとなり、多くの観客に戦時中の暮らし、戦争の無意味さを伝えるきっかけとなった。

戦時中の日本では、国民に自国の劣勢は知らされず、「欲しがりません勝つまでは」というスローガンのもと、状況もわからないまま戦争が終わるのを待つ生活が続いていた。すずが嫁いだ1943年には、米軍の反転攻勢が強まり、日本本土への空襲も始まっていた。1940年には国民服令が制定され、服装の自由も制限された。すずの義理の姉である径子はモガであり、洋服が実家に残っている。このさりげない描写は、生活の小さな部分から少しずつ自由が消えていくことを感じさせる。

1944年、配給が少なくなり、野草も食事に活用する生活になっていく。防火対策のために建物を壊す「建物疎開」が始まった。また、すずが軍港の軍艦の絵を描くだけで、憲兵から警戒されるほど、戦争の影が濃くなっていく。絵を描く機会が減ったすずは、上手く絵が描けなくなってしまう。劇中、すずの持ち前の明るさとマイペースさが、時代の暗さを和らげるが、人間の生きる喜びは 為す術もなく奪われていく。1945年3月、呉も空襲を受ける。家族や幼馴染が居なくなることが当たり前になり、死が身近に迫る中でも、すずの日常は続いていく。

この作品が伝えるのは戦時中でも人間の暮らしがあること、そして暮らしの中の小さな幸せや人との繋がりが否応なしに奪われるのが戦争だということだ。軍国主義の日本に戻ることのないよう、私たちは自分の暮らしを自分で守ることが出来るよう考えていかなければいけない。

2017年にノーベル平和賞を受賞した核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の中心人物の一人である被爆経験者、サーロー節子氏に迫るドキュメンタリー。ノーベル平和賞の受賞スピーチは、被爆体験の「語り部」として力強い意志を感じるものだ。世界中の人々がこのスピーチに耳を傾け、2021年に核兵器禁止条約が発効された。ノーベル平和賞の受賞を機に、被爆者の実体験を世界が継承し、核兵器廃絶を願う国々がひとつになるきっかけを作ったことはとても意義深い。そして、日本だけでなく、世界に向けた発信を出来る彼女の存在の大きさにも気づかされる作品だ。

第二次大戦下、アメリカの核燃料製造拠点を支えるため、先住民の土地を接収して作られた町「リッチランド」。長崎に投下された原子爆弾”ファットマン”の原料を製造したこの町に暮らす人々の証言から原爆の是非を問うドキュメンタリー。

本作で語られるリッチランドとはどういった街なのか。そのアイデンティティを語るために用いられるシンボルの一つが、地元高校の校章にもなっているRの文字と背景に浮かぶキノコ曇だ。原爆の惨状を知る人々からすれば大量殺戮の象徴であるキノコ雲も、リッチランドの一部の住民にとっては戦争を終わらせた名誉の証になっている。その名の通り、原爆製造最前線だったリッチランドは経済的に豊かで、住民はその恩恵を受けてきた。これらの理由から原爆正当化論が語られる一方、町の高校生はキノコ雲を模した校章について意見を交わす。それは原爆の是非を考えることにも繋がる。

原爆開発を誇りとする町で、彼らのような原爆否定派はマイノリティだが、「多くの反対が叫ばれても、自分たちの意志を曲げないことが重要」と学生は語る。誰かの意見に流されたり、情報を鵜呑みにするのではなく、物事の是非を自分の頭で考えることが重要だ。膨大な情報が飛び交う世の中でこれを実践するのはとても難しく、面倒なことでもある。しかし、そういった面倒を重ねて考えられた社会にこそ、平和が存在すると私は考える。

戦後80年間、人類は核戦争の危機とともに生きながら、どの国も核兵器を使う選択はとらなかった。現実の反核運動と呼応するように、多くの映画が原爆や核戦争の危険性を訴え続けた。映画が人に訴える力は強く、反核、反戦の一助になってきた。そして、ここまで様々な映画を紹介してきて感じるのは、その映画を理解するための土台となる平和学習の重要性だ。私は小学生の頃に原爆で焼かれた広島・長崎の写真集を見た。当時は写真に写る人々が生きているのか、死んでいるのか判別が出来ず、ただ「怖い」という感情だけが胸に残った。この負の感情を胸に、平和について学び生きていくことが明日の平和を作るのに何よりも重要なことだと私は思う。

原爆肯定、否定については様々な意見がある。ピュー・リサーチ・センターによると、アメリカ人への原爆投下の意識調査によれば、まだまだ肯定派が多い。しかし、18-29歳の若者の間では原爆投下を否定的に見る動きが強く、未来に希望を持って良いのではないだろうか。

何より、『リッチランド』で学生が言ったように「多くの反対が叫ばれても、自分たちの意志を曲げないことが重要」だ。原爆投下から20年後に、被爆者の体験記を集めた『原爆体験記』(広島市原爆体験記刊行会編)が刊行された。本書には29編の原爆体験が収められており、一つ一つの体験が痛ましく、しかし記憶し続けるべきものである。大江健三郎氏が本書のあとがきに記した「なにを記憶し、記憶しつづけるべきか?」から以下の文章を引用する。

われわれ、あの戦争を生き残ったすべての日本人にとって、これを忘れ去ることは、広島の死者たちへの、また、いまなおくるしみつづける生存者への最も恥ずべき裏切りであろうと思います。もし、われわれの政府が、それを記憶しつづけ、それを忘れたふりをしないだけの誠意を示すなら、われわれの政府は、国際的な孤独におちいるはずであるかもしれません。しかし、それはおそらく、あの戦争の終末依頼、われわれの政府のかちえるもっとも名誉ある孤立なのではありますまいか?

広島市原爆体験記刊行会編. 原爆体験記, 朝日新聞出版 1975, p249

この文章で語られる通り、日本は世界から孤立したとしても原爆体験を忘れずにいなければならない。付け加えるならば、世界が利欲に走り、戦争で解決することを選んだとしても、日本だけは最後まで平和的解決を探るべきである。それは、利欲に走って太平洋戦争を開始し、その顛末として原爆を投下された歴史を持つ日本だからこそ背負うべき責任だと私は考える。


第1章
・松浦総三「占領下の言論弾圧」現代ジャーナリズム出版会(1969), 115-124。
・佐藤忠男「日本映画史2 1941-1959」岩波書店 (1995), 219–222。
・広島市市民局国際平和推進部 平和推進課, 2025-02-16, https://www.city.hiroshima.lg.jp/atomicbomb-peace/fukko/1026918/1020948.html

第2章
・広島平和記念資料館, https://hpmmuseum.jp/modules/info/index.php?action=PageView&page_id=38&lang=jpn

第3章
・長崎大学核兵器廃絶研究センター, “『世界の核弾頭データ』ポスター”, 2025-06, https://www.recna.nagasaki-u.ac.jp/recna/nuclear1/poster?doing_wp_cron=1754739295.4228301048278808593750
・朝日新聞デジタル, “世界の核弾頭1万2340発、長崎大が公表 統計開始後初の増加” 坂本純也 ,2025-06-04, https://www.asahi.com/articles/AST642V1QT64TIPE01ZM.html

第4章
中國新聞, “サーロー節子さん演説全文”, 2017-12-12, https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=79180

おわりに
・Pew Research Center, “80 years later, Americans have mixed views on whether use of atomic bombs on Hiroshima, Nagasaki was justified” by Emma Kikuchi, 2025-07-28, https://www.pewresearch.org/short-reads/2025/07/28/80-years-later-americans-have-mixed-views-on-whether-use-of-atomic-bombs-on-hiroshima-nagasaki-was-justified/
・広島市原爆体験記刊行会編. 原爆体験記, 朝日新聞出版 1975,

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