【FILM REVIEW】『逆転のトライアングル』愛が試される

『逆転のトライアングル』

愛が試される

作品情報

『逆転のトライアングル』(スウェーデン、イギリス、アメリカ、フランス、ギリシャ/2022年/147分/原題:Triangle of Sadness)

監督:リューベン・オストルンド
脚本:リューベン・オストルンド
出演:ハリス・ディキンソン、チャールビ・ディーン・クリーク、ウディ・ハレルソン、ヴィッキ・ベルリン、ヘンリック・ドルシン、ズラッコ・ブリッチ、ジャン=クリストフ・フォリー、イリス・ベルベン、ドリー・デ・レオン、ズニー・メレス

4

あらすじ

メンズファッションモデルのカールは、人気のファッションモデル・ヤヤと付き合っている。カールは、ディナーの支払いでのヤヤの態度が原因で揉めてしまう。ヤヤがカールと付き合っているのはフォロワーを増やすためなど、ビジネス的な側面が強かった。カールは金や知名度に対する価値感の違いを認識し、ヤヤを自分に惚れさせてみせると宣言する。

ある日、カールとヤヤは豪華客船でのクルージングに参加する。船には、有機肥料販売で市場を独占したオリガルヒ、テクノロジーを販売するIT資本家、英国の武器商人など、様々な金持ちが集っていた。そして、船員たちは彼らに最高のサービスを提供することを誇りとしていた。皆が優雅なひと時を楽しむ中、ディミトリの婦人がクルーに休養を与えるため、全員で泳ぐように命令し、マネージャーのポーラは指示に従ってしまう。これが一因となり、予定されていたキャプテンズ・ディナーは大時化の夜に実行されることになってしまう。
大揺れの中で行われたキャプテンズ・ディナーは吐しゃ物と体調不良者多発の地獄絵図と化した。皆が退席していく中、残ったキャプテンと、オリガルヒの社長は資本主義国家の共産主義者、社会主義国家の資本主義者として、経済を語る。2人は悪ノリの末、自分たちのトークを館内放送で流して、大荒れの夜はさらに荒れることとなった。
翌朝、何かが船に投げ込まれたことに武器商人の妻が気付く。それは自分たちが販売しているであろう手榴弾だと気付いたころには、船は海賊に襲われていた。無人島に漂着した生存者たちは、水も食料もなく、それを調達する能力も無かった。そこへ、救命艇が漂着し、船で清掃員をしていたアビゲイルが乗っていた。アビゲイルはサバイバルスキルに長けており、魚を獲り、火を起こし、調理も出来た。船では清掃員であったが、島ではキャプテンとなり、皆彼女に従うことにした。カールはアビゲイルの隠し持っていたスナックを食べたことで、食料を与えられなくなった。しかし、アビゲイルと一夜を共にすることで、食料をもらうのだった。皆がカールを蔑み、ヤヤもカールとアビゲイルがセックスをしていると疑い、ロバを仕留めてスターになったヤルモに公然とキスをする。後日、山を探索に出かけたヤヤとアビゲイルは、島は無人島ではなく、リゾート地であったことを知る。ヤヤは生還出来ることに安堵し、海を眺める。アビゲイルは岩を持ち、背後からヤヤを襲おうとする。そして、カールは2人を探しに森の中を走っていた。

おすすめポイント

資本主義への皮肉たっぷり

『フレンチアルプスで起きたこと』『ザ・スクエア 思いやりの聖域』で皮肉たっぷりに人間社会を描いてきたリューベン・オストルンド。本作では資本主義に焦点を当てる。上流階級の失態や、人間の汚い部分を痛烈に描いているが故に、敵も多く作りそうな内容になっており、この作品を皮肉たっぷりの芸術だと評価するか、けしからん愚作だと非難するかで、気量が測られるだろう。

感想

資本主義を支える差別化

原題は『Triangle of sadness』(悲しみのトライアングル)。冒頭、ハイブランドのモデルオーディションシーンで語られるように、眉間(トライアングル)の印象は、ブランドのイメージにまで影響する。ハイブランドは顧客を見下すようなクールな印象を、一方、ファストファッションは親しみやすい印象を求められる。こうしたブランディングは資本主義において重要な戦略である。なぜなら、他社と差別化することで、自社の優位性をアピールしなければ、膨大な類似品の中で埋もれてしまうからだ。

差別化の論理は個人レベルにも置き換えられる。つまり、他者との差別化だ。思えば、就職活動や転職活動では自分だけの強みをアピールすることを求められてきた。働いていても実績を作ることで、他者との差別化を求められる。特に、数字で図ることの出来る指標で成果を出していれば、管理する側もわかりやすく、重宝することだろう。

だが、差別化は非常に困難なものだ。明確な違いを出すためには、様々な無理が生じる。ファッション業界においては、安価を突き詰めた結果、発展途上国の人々が過酷な環境での労働を強いられたり、差別化のために人種を限定してモデルを起用したり、新作を作り続けるために環境汚染をしたりと、問題が山積みである。綺麗ごとでは片づけられない問題がこの巨大な産業の裏に隠れていることを示す、見事な立ち上がりの作品だと言えるだろう。

意地の張り合いが招く悲劇

新藤兼人の『人間』(1962)がそうであったように、人の内面を描く舞台として、船は最適解かもしれない。ヒエラルキーの頂点に立つ資本家たち。そして、豪華クルージングを成り立たせようと、悪戦苦闘するクルー。その努力とは無縁に思われる清掃員たち。この3つの階層の人々で、豪華客船という小さな社会は成り立っている。

また、サービス業に焦点を当てたことで、作品が持つ皮肉っぷりが倍増している。サービス業では長年、「お客様は神様」と神話のように語り継がれてきた。仮に、職場ごと買収してしまえるクラスの超金持ちがお客様なら、なおさら最高のサービスを提供しなければいけないだろう。劇中ではディミトリの妻がクルーに「役割を交換しよう」と無茶ぶりをする。クレームを上手くいなすのも、サービス業に必要なスキルであるが、超金持ちでは相手が悪い。自分の財力(夫の財力)を後ろ盾にした悪質なクレームに、NOをYESに変えさせられてしまったのだ。(実際、こういう客が来た場合、難しい旨を伝えた証拠を元に、法的な対応をとることになるだろう。相手が他国の人間であれば事情は違うだろうが…)

オールクルー休息事件では金持ちの意地が勝ったが、サービス業側にも意地がある。大時化のディナーでは、一大イベントであるキャプテンズ・ディナーを成功させようと、次から次へと料理がもてなされる。穏やかな海でのディナーなら最高だっただろうが、この高級料理たちを美味しく召し上がるにはハードルが高い環境だ。せっかくの高級料理は次から次へと黄色い吐しゃ物となり、吐き出されていく。料理を提供したいクルー、料理を堪能したい客。両者が高級ディナーの”格”を保とうとした結果、意地の張り合いがゲロまみれディナーを招いてしまうとは、これまた皮肉なことである。

船長とオリガルヒ

ちょっと憧れるなと思ってしまったのは、ウディ・ハレルソンとディミトリが打ち解けるシーンだ。経済的な成功者同士、偉人の引用で盛り上がり、酒を飲んで、自分の経済論を吐露しあう。彼らは”持てる者”のグループに属しているが、それを自慢するよりも、その地位になって得られた知見を語り合う”神々の遊び”を行っている。

実際のところ、彼らは自分の知見を語り合えるだけの歴史や持論を持っている人物に出会うことは無かったのだろう。船長は、船長としての振る舞いを同僚に求められ、ディミトリは富豪としての振る舞いを妻から求められる。本当の自分を出せる相手に出会った時、人はあそこまであけすけに物事を語れるのだろう。

“暗黙の了解”の破壊

富豪たちが醜態を晒した翌朝、「船」という小さな社会は突然終わりを迎える。何とか成立していた(実際、成立しているように見せているだけの)豪華クルージングの”格”は、海賊によって壊される。

ここで思うのは、監督のリューベン・オストルンドは意識的に、その場を成り立たせる”暗黙の了解”を破壊しているということだ。前作『ザ・スクエア 思いやりの聖域』の終盤では、著名人が集まるレセプションに、芸術を理解しないであろう野人を乱入させ、レセプションの場を破壊した。

本作に関しても、豪華客船という場を海賊という”持たざる者”の乱入で破壊している。階層化された社会では決して出会うことのない、しかし、確実に同じ世界に生きている存在に場を破壊されるのだ。「出会うはずのない他者との出会いがもたらす変化」は映画には欠かせない要素だが、本作では、それが次の展開(無人島パート)の誘導になっているため、脚本としてもレベルが上がっていると感じる。

愛の証明

他のエピソードの破壊力が凄まじいので、忘れがちではあるが、物語の軸は、「カールとヤヤが”真実の愛”に辿り着けるか否か」ということだった。彼らにとっての”真実の愛”は、言い換えればビジネスを抜きにした関係だ。

無人島に漂着し、生きて帰れるかもわからなくなった状況で、ビジネスを通じた関係は不要となった。2人の関係からビジネスが取り除かれ、残ったのは生存本能だけになった。カールは生きるための食糧を得るために、アビゲイルの性的奴隷となり、ヤヤはそんな彼を蔑んだ。しかし、カールを寝取られたことで、彼への愛情にも気づかされる。

無人島という非日常的な状況になって、初めてお互いの気持ちを確かめ合うことが出来る。そんなラストになると思ったのだが、ことはそんなに単純ではない。無人島が実はリゾート地だとわかり、ヤヤは安堵するが、アビゲイルは自分の天下の終わりを悟り、ヤヤを葬ることで、その天下を続けようとする。カールはそれを知ってか知らずか、2人を探しにいくのだが、彼がどちらを探しに行っているのかはハッキリとは描かれていないのだ。

嫉妬に狂ったヤヤがアビゲイルを殺す可能性もある(その場合、ヤヤは、アビゲイルがついて来ることを見越して、散策を伝えた?)。なので、ヤヤにもアビゲイルにもお互いを殺す動機がある。一体、カールはどちらを助けに走ったのか。”真実の愛”が叶ったかどうかは、選択式というわけだ。

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