ズル賢いのは生きる知恵!
目次
作品情報
『君たちはどう生きるか』(日本/2023年/124分)
監督:宮崎駿
脚本:宮崎駿
出演:菅田将暉、柴咲コウ、あいみょん、木村佳乃、木村拓哉、風吹ジュン、大竹しのぶ、阿川佐和子、火野正平、小林薫
4.0
あらすじ
第二次世界大戦直前の日本。療養中の母を火事で亡くした眞人は、母の妹で、父の再婚相手の夏子と共に暮らすことになる。ある日、妊娠中の夏子が失踪してしまう。眞人は庭に飛んでいた青鷺に誘われ、大叔父が建てたとされる塔に入る。夏子を探しにいくため、奉公人のキリコと共に、異世界へ旅立つ。
感想
一つの時代が消える恐怖
ジブリともなると、純粋に物語を楽しむよりも、作り手である宮崎駿の人生が重なって見えてくる。正直なところ、作品の出来云々よりも戦中、戦後生まれの監督が減っていくなかで、宮崎駿がここまで生きて、新作を作ったことに心を動かされる。 戦前〜戦後の日本を説得力のある形で描くことが出来るクリエイターは今後数10年でいなくなってしまう。戦争を経験していない世代が描く戦争しか見ることが出来なくなる。このことに恐怖を感じてしまう。そんな自分を鼓舞してくるかのように、宮崎駿流の生き方が提示される。
眞人の抱える罪悪感
原作の『君たちはどう生きるか』では、コペル君が友達を裏切ってしまった罪悪感に苛まれ、叔父との対話を通して、その感情と向き合っていく。眞人の場合は、いじめられたことを隠すために頭を傷つけたことが罪悪感のきっかけになっている。 母を失ったことで、眞人の中には弱い自分が生まれてしまう。眞人は弱い自分を拒絶するかのように、表向きは母への思いを隠し、大人びた態度で振る舞う。頭の傷もいじめられる自分の弱さを肯定出来ないためにつけてしまったように思える。
長く生きれば、悲しい時は悲しんで、辛いことがあれば愚痴を言いつつも何とか乗り越える力が少しずつ身についてくる。そうして、弱い自分を少しずつ受け入れられるようになっていくと私は思っている。 眞人は、弱い自分を受け入れられないことに罪悪感を感じているように思う。ナツコを迎えにいく旅は、この罪悪感と向き合うための旅になっている。
3人の協力者
眞人は旅の途中、3人のキャラクターに助けられる。別世界のキリコ、別世界の母・ヒミ、そして青鷺だ。彼らは原作版の叔父さんがコペル君にしたように、罪悪感と向き合っていくためのヒントをくれる。
青鷺が教えてくれたこと
青鷺は「母君は生きている」と伝え、眞人を別世界へ誘う。嘘つき呼ばわりされている青鷺だが、たしかに別世界で母は生きているし、ナツコ=新しい母も生きている。 作り物の母で我慢させようとするのは、嘘で自分の心を満たそうとする青鷺流の自己防衛の手本だったのだろう。青鷺自身が語るように、「ズル賢いのは生きる知恵」である。そんな青鷺の人生訓を聞いて、眞人は「嘘をつくのは100%悪いことではない」と学んだのではないだろうか。
キリコが教えてくれたこと
キリコは貪欲でタバコのためなら、主人の弓矢を拝借することも厭わない。別世界のキリコは殺生を許された存在だ。”上の世界”で人間として生まれるワラワラを飛び立たせるため、彼らの栄養となる臓物を供給している。そう考えると、キリコは人間を生み出す”人類の育ての親”的存在とも言える。 ワラワラを燃やすヒミを眞人は咎めたが、キリコはヒミに感謝した。殺生を知っている、つまり、多くの命が犠牲となった結果、我々は生かされていることを知っているのだ。キリコとの出会いで、眞人は”自分”という存在が、”世界”という大きな流れの中の一部というちっぽけさを知ることが出来たのだ。
ペリカンが教えてくれたこと
仲間ではないが、ペリカンは価値観の二面性を表す。ペリカンはワラワラを食う存在だが、彼らも種の存続のために食べている。人間が家畜を殺して食べることも種の存続のためにやっている。(種の存続を通り越して、快適性を目的とした殺生も進んでしまっていると私は思う)。 キリコのおかげで、自分は犠牲の上に生かされている存在だと理解した眞人はペリカンの言い分も理解出来るようになっている。キリコがサラッと言った言葉は意外にも眞人の心に刺さっていたのではないだろうか。そして、死んだペリカンを埋葬することは、人間(ワラワラ)を殺してしまう存在も受け入れられるようになった証にも見える。
ヒミが教えてくれたこと
ヒミは誰かを守るために無茶をする。ワラワラを守るためにペリカンを攻撃する。インコや、眞人を取り込もうとするお産部屋の力にも攻撃する。守るためには、戦う選択もしなければならないのだ。 理由が誰かを守るためであったとしても、”戦い”にはマイナスな結果が伴う。眞人がそうしたように誰かから非難されることもある。戦いで力尽きて、連れ去られることもある。言い換えれば、ヒミは自己犠牲を厭わない存在だ。 彼女の姿を見ていると、誰かのために、戦わなければいけない時を予感させる。いつか来るその時のために、自分を守ることだけを考えていてはいけないと眞人も感じていたのではないだろうか。
超越した存在”大叔父”
眞人が自分を犠牲にして守るもの、それはこの”世界”だった。想定していたスケールと違い過ぎて面食らってしまいそうなものだが、眞人は受け入れる。”世界”を調整する役割を担っている大叔父の後継になれるのは、その血の繋がっている眞人だけなので、他の誰かに任せられる役割ではないからだ。 結果的に、眞人はこの大役を断ってしまう。これは大叔父のエゴを否定している。
大叔父のエゴは2つある。ひとつは、””世界””の調整役が1人(そうあるべき)だというエゴ。もうひとつは、その役割は血が繋がっている者にしか担えないというエゴだ。 世界は無数の他者で出来ている。 原作でも腹落ちしたのは、やはり世界は他者の集まりで出来ているという事実だ。
自分1人では生きていけない。よく扱われるテーマではあるのだが、ここを理解しているかどうかで、生き方や考え方も変わってくるように思う。 私たちは世界から孤立した存在ではないし、世界を動かす”唯一”の存在でもない。世界は無数の他者と一緒に作っていかなければいけないのだ。
君たちはどう生きるか
自分とは違う他者と作る世界を平和に保つのには様々な努力が要る。どういう努力をするべきなのか、絶対の正解は存在しないだろう。だが、少なくとも眞人が旅の中で得た教訓は無駄にはならない。なぜなら、その教訓は眞人が持っていなかった”他者”の生き方だからだ。 そうして、”他者”と繋がった眞人は自分の弱さを受け入れて生きることを決める。青鷺は「すぐに忘れてしまうだろう」と言うが、「学んだ教訓を忘れずに活かす」ということが最後の教訓なのかもしれない。
歴史は繰り返す。人間は同じ過ちを犯し続ける。
だからこそ、過去の教訓を忘れずに生きていかなければならない。
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